「知りませんよ、僕は。バックセットがどうなっても」

「…………」

「だから、なんでそんなに楽しそうなんですか」

「あなたを見ているのは、楽しい」

「こっちはさっぱりですよ」

「安部さんなら大丈夫」

「その根拠は？」

「あなたがリーダーだから」

「…………」

先輩は、俺の使い方を熟知している。

この人にこんなことを言われたら、裏切るわけにはいかない……

俺がそう考えるのを知っているんだ。

「……まあ、僕も大丈夫だとは思いますけど」

「その根拠は？」

「先輩が創ったバックセットだからです」

「世渡りが上手くなったね」

「こういう時こそ、嬉しそうな顔をしてくださいよ」

「不器用なあなたの方がいい」

「さり気なく、ダメ出ししないでください」

そしてまた、先輩は嬉しそうに目を細める。

この歳になって、全く成長していない自分。

俺はこの人に褒められたかった。

そのために、必死で頑張ってきた。

昔、ステージの上で誰よりも輝いていた人。

水鏡京香という名の役者に憧れて飛びこんだ、芸能の世界。

先輩が演出家の道を歩み出してからも、
その憧れと尊敬の念が薄れることはなかった。

（中略）

「上山さんも、役者になった……ということなんでしょうね、
　今回のことは」

「そう。舞台に立っている人間ならば、誰もが一度はぶつかり、
　向かい合う問題」

「先輩もそうだったんですか？」

「…………」

初めて表情が曇る。

「どうして、先輩は……」

――役者を、やめてしまったんですか？

言葉を続けることはできなかった。

「……そろそろ出よう。すまなかったね、急に呼び出して」

「いえ……」

先輩は席を立つと、真っ直ぐにレジの方へ歩いていく。

ずっと追いかけていた背中。

そして、追い越せなかった背中。

それは学生時代から変わらずに。

ただ憧れるだけの、孤高の存在だった……